HOME > 仙台みそについて > おみその歴史


みその起源は古代中国の「醤(しょう)」だといわれています。醤は、獣や魚の肉をつぶし、塩と酒を混ぜて壺につけこみ、100日以上熟成させたものであります。今のソースや醤油と同じように使われていたようです。紀元前700年頃の周王朝には醤を専門につくる役職があり、王家の正式な料理「八珍の美」(8種類の基本料理)には120かめもの醤が使われたと記録に残っています。醤は大変格式の高い調味料だったのです。紀元前1世紀頃になると、大豆や雑穀を発酵させた「(し)」が作られるようになります。



醤やがいつ頃、どのように日本に伝来したのかは、よくわかっていません。醤やの文字が初めて登場する「大宝令」(701年)には、中国にはない「未醤」という言葉も見られます。これは醤に日本人が工夫を加えた新しい調味料で、みその前身ではないかと考えられます。

その理由は「醤」は「しょう」「じゃん」「ひしお」、「」は「し」「くき」と読み、どれも「みそ」という音とはつながりにくいのに対し、「未醤」のほうは「みしょう」→「みしょ」→「みそ」という変化が、容易に想像できるからです。ちなみに「噌」という漢字は「味噌」以外に使われていません。みそのためだけにつくられた文字であります。



昔のみそは、いまのように料理をするときに使うものではなく、食べ物にかけたり、つけたりしていました。また、薬としても利用されていたようです。

「延喜式」(927年)によれば、当時の高級官僚には、もち米やみそが月給として支給されていました。みそは平安貴族の食卓にはのぼっても、庶民の口にはなかなか入らないぜいたく品だったのです。そのためか贈答品としても重宝されたようで、お役人の家に届けられた贈答品の中には、みそもあったと記している資料もあります。

みその売買はこの時代以前から行われていましたが、みその専門店が史料に登場するのは、「延喜式」に記された京都東市の醤店と西市の未醤店が最初です。この公設市場には、みその他に米店、塩店、油店、干魚店さらには絹、綿、櫛、針、筆などの店がありました。
みそはまだ、ぜいたく品とはいえ、これらの品々と同等の生活必需品になりつつあったのです。



みそ汁がつくられ始めたことは、みその歴史の中で、もっとも貴重な出来事のひとつです。この時代、禅宗の寺では、中国からやってきた僧の影響ですり鉢が使われるようになりました。そして、「粒みそ」をすりつぶした「すりみそ」が造られたのです。すりみそは、水に溶けやすく、みそ汁として利用されるようになりました。みそ汁の登場で「一汁一菜」という鎌倉武士の食事の基本が確立し、明治、大正にいたるまで長く受け継がれていくことになるのです。しかも、主食や"一菜"の中身はいろいろ変化しましたが、"一汁"は常にみそ汁でした。

いまでこそ「一汁一菜」は粗食の代名詞のようにいわれますが、武家や僧侶は当時の特権階級で、みそ汁が一般に普及するのは、室町時代になってからのことです。



みそ汁が庶民の間に浸透しただけではなく、いまに伝わるみそ料理のほとんどが、この時代に作られ始めています。室町時代はみその発展基盤が整った時代といっていいでしょう。

この背景にあるのは、大豆・稗(ひえ)・粟(あわ)栽培の奨励策に伴って大豆の生産が増えたことで、みその自家醸造が始まったのもこの時代です。「武家にては必ず飯わんに汁かけ候」といわれたように、室町から戦国時代にかけては、ご飯にみそ汁をかけて食べるのが普通でした。この頃は、汁かけ飯が下品な習慣だとは考えられていなかったのです。「なめみそ」の金山寺みその起こりは鎌倉時代ですが、その後、柚子みそ、蟹みそ、鉄火みそなどたくさんの種類の加工なめみそが現れてきます。

さらに室町時代末期には、液体の調味料、醤油が発明されたといわれています。



戦国武将たちはみな、戦闘能力を左右する兵糧(戦陣食)には重大な関心を持っていました。とくに米とみそ、この2つは絶対必要な兵糧でした。

たとえば武田信玄は信濃遠征に備え、農民に大豆の増産を促し、みそ作りを奨励しました。また、伊達政宗は軍用みそを他に頼らず自給しようと考え、城下に「塩噌蔵(えんそぐら)」と呼ばれるみそ工場を建てました。これが日本で最初のみそ工場です。ただ、みその携帯には苦労したようで、干すか焼くかしてみそ玉にしたものを、他の食料と一緒に竹の皮や手拭いで包み、腰に下げるのが一般的だったようです。

また、干菜や干大根などをみそで塩辛く煮詰め、それを干し固めて携帯し、陣中ではそれを水に入れて煮ればそのままみそ汁になる、即席みそ汁のような方法も考えだされました。
信長、秀吉、家康は、いずれも豆みそどころの出身です。



この時代になると、みそは現在とあまり変わらないぐらい、なくてはならない食品になっています。元禄期の江戸は人口が50万に達しました。江戸の生産だけではみその需要を到底まかないきれず、三河の三州みそや仙台みそが海路どんどん江戸に運ばれ、みそ屋は大繁盛するのでした。

また、それにつれて、みそ汁の具にする野菜売りも盛んに行われ、町中が野菜畑になったようだともいわれました。ただし、「みそ買う家に蔵は建たぬ」ということわざがあるように、武士、農民、大商人は自家醸造がほとんどでした。みその販売はもっぱら庶民を対象としたのです。

みそを題材にした落語や川柳がたくさんつくられたことでも、みそがいかに庶民の生活に浸透していたかがわかります。

しかし一方では、高級料亭の開業も相次ぎ、すぐれた料理書もたくさん刊行されて、みそ料理はますます洗練されていきました。

参考資料:みそ健康づくり委員会『みそを知る』

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